This is the midget submarine developed by old Japanese Imperial Navy from 1931. And Japanese navy adopted her in 1940. Her length was 23.9 meters,maximum underwater speed was 19 knots,and crews were 2 men. She was named the "Ko-Hyoteki" (It is the meaning "A-Target" in English.)as "a target for antisubmarine attack training" for counterespionage. The five "Ko-Hyoteki"were thrown into Pearl Harbour attack on December 1941. In the end, none of the "Ko-Hyoteki" Unit returned home. With the exception of Ensign Sakamaki, all 9 crew members perished. Ensign Sakamaki became a first POW of the Pacific War. "Ko-Hyoteki" had some types ,this model is the type used for the Pearl Harbor attack in 1941. IMPRESSION 新フリーペパクラは、ルノホート、と信じて待っていてくださった皆様、すいません。 なぜか潜水艦になってしまいました。 さて、この「甲標的」、いくつかの型がありますが、これは1941年の真珠湾攻撃隊仕様を再現しています。いや、したつもりです(笑) これの実物はテキサス州の博物館に展示されていると聞きます。(例の座礁したやつ) そのほか、1960年に真珠湾港外の海底から発見されて引き揚げられたものが、我が国に返還され、現在は江田島の海上自衛隊第一術科学校に展示されているそうです。 あいにく私の住まいからは、どちらも遠すぎて(笑)実物の取材はできませんでしたので、いつものように雑誌などに掲載された写真と、判明した一部の寸法からの「目見当モデリング」です。 パーツの数は少な目なので(精度はともかく)週末の暇つぶしにでも作っていただけたなら幸いです。 |
HISTORY 旧日本海軍が秘密裏に開発し、太平洋戦争で実戦投入した、全長約24m、乗員2名の小型特殊潜航艇。 名前の「甲標的」というのは、現代風に言うと「標的1型」とでもいう感じ。 要するに、万一敵のスパイに嗅ぎつけられても、「対潜水艦攻撃訓練用の『標的』なのね。新兵器とかじゃないのね」と思っていただくためにこのような名前にしたわけだ。 正式採用は15年(1940年)であるが、その開発は昭和6年(1931年)にまで遡る。 使い方としては、敵艦隊の近所まで母船となる水上艦、または大型の潜水艦に搭載されて接近し、「この辺でいいかな」というところまで進出したら母艦から発進する。 そして外洋を巡航している敵艦隊を捕捉し、有利な魚雷発射位置につくために、当時の潜水艦としては破格の19ノットという水中速度を実現!(有名なドイツのUボートの水中最高速度は7ノットで、どこの国の潜水艦も大体こんなもんだったのだ) そのスピードは、当時の潜水艦としちゃ、まさに赤い彗星!(黒いけど) 小型なので、敵にも見つかりにくい。仮に見つかっても、このスピードなら敵をぶっちぎってずらかれる。(当時の水上艦のソナーは、この速度に追いつけるほど飛ばすと自分の騒音で潜水艦を探知できない。探知できる速度にまで落とすと、逃げられちゃう) まさにヒットアンドアウェイ!この「甲標的」の集団で隠密急襲すれば、敵艦隊は大混乱!…となるはずだった。 が、実際できあがってみると、そううまい具合にはいかないということが判ってきた。 写真を見ていただけばお判りのように、この小さな船体の重心位置からかなり離れた船首に重〜い魚雷を装備している。 普通、潜水艦の魚雷は海面下すれすれ、いわゆる「潜望鏡深度」から発射するわけだが、これじゃあ、魚雷を発射したとたんに、いきなり前後の水平バランスが狂って、海面に「こんにちわ〜!」とイルカジャンプしてしまうのでは?ってのは素人の私でも予想がつくぞ。 そもそも小型すぎて、外洋でそういうポジションをとり続けると、魚雷を撃つ前に波の勢いで海面に顔を出してしまい「ここにいますよ〜」となってしまうのだ。 実際、そういうことで、とてもじゃないが波の荒い外洋で、航行中の敵艦隊襲撃に使うのは無理っぽい、という結論になった。 そこで、今度は敵艦が停泊している基地などに隠密潜入して攻撃することにしようということになった。 港湾なら波は静か。敵艦も止まっているから狙い易いはず…。 ところがどっこい、この「甲標的」、スピードこそ速いが、旋回性能などの操縦性が劣悪で、小回りが全然きかないのだ。 その上、ソナーなどのセンサー類も無し、航法装置も、すぐ故障ばかりするジャイロコンパスと海図のみ。潜水艇だから、当然外は見えない。潜望鏡を海面に出しっぱなしじゃ、狭い港の中とて、なんぼなんでも敵に見つかりやすい。 ただでさえ警戒の厳しい敵の港湾。その狭い入口からうまいこと潜入して、これまた狭い港の中を小回りの利かないこいつで、せっかくのスピードも生かせずうろつきながら獲物を物色して攻撃?…無茶でしょう…。 (あなたなら窓をペンキで塗りつぶした車で、スピードメーターと地図と磁石、ストップウォッチだけを使って街の中を走れます?) それでも実戦に投入されました。 デビュー戦は、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃作戦。(映画「パールハーバー」のあれ、といえば若い人でも判るかな?) 5隻がこの作戦に投入されて、2隻は真珠湾潜入前に見つかり撃沈されてアウト。2隻は湾内に潜入できたものの、一隻は魚雷発射前に発見されて沈められ、もう一隻は、魚雷は発射したらしいが、戦果不明のまま行方不明。 残る一隻は、例のジャイロコンパスの故障で、2度も座礁した結果、動力の電池切れで行動不能となり、2名の乗員は自爆装置をセットして脱出したが、1名は溺死。1名は人事不省の状態で浜に漂着しているのを発見されて捕虜となった。(この方は戦後無事帰国し、平成11年に他界されております) というわけで、結局出撃した5隻中、帰還したものはゼロ。 前述の、乗員が脱出した「甲標的」は、セットした自爆装置が故障(?)で作動せず、米側に回収されて米国内各地を巡回し一般公開された。 米軍に損害を与えるよりも、その戦意高揚と戦時国債募金に一役買ってしまったという皮肉な結果になったわけである。 その後もあちこちマイナーチェンジをされながら、南方諸島などを中心にゲリラ的な作戦に使用されたが、損害の割りにこれといった戦果は少ない。 要するに基本設計が全くなっちゃいなかったのである。 後の人間魚雷のような「自殺兵器」じゃなかったのがせめてもの救いだが、実際のところ、乗員の生還率は非常に低かったようである。 |